比較では指標を決めることが一番重要
比較(comparison)は、同種の母集団から、より良い商品やサービスを選び出すランキングの手段であり、重要とする指標を決めて、その指標での優劣を判定する行為である。比較で用いる指標は定量的であるべきなのだが、サービスなど定量化しにくいものについても、定性的な比較がなされるようになっている。こういった定性的な比較は、比較者によってランキングの結果が異なるのが特徴である。
定量化が困難な比較の代表に美人コンテストがある。本来こういったコンテスト類は、「美しさ」など定量化できない事項について競うものであり、競う以上は採点、つまり比較する指標が存在することが大前提となる。定量的に比較できないことを前提としたコンテストでは、その道での第一人者や社会的に信用が高い人物を審査員として、その主観でとらえたレベルを審査員のセンスで定量化し、数字に置き換える。この際、ひとりの審査員の採点では、好み、すなわち主観が異なるため、複数の審査員をおくことで、公平に比較できる環境を整え、共通の指標で評価した結果を集計することが一般的である。また、公平を期するために、その審査過程を公開することが一般的であり、その結果として誰もが納得する比較結果とランキングが算出されることとなる。
ここで大切なことは、3つ
- 比較する指標が明確である
- 採点する審査員が十分な力量を持っている
- 審査過程が公開され、公明正大に行われている
である。このどれか一つでも欠ければ、その比較結果は信頼するに値するものにはならない。コンテスト形式の場合、比較はショー的要素を持つため、比較過程自体がひとつのコンテンツとなり得る。その最たるものにオリンピックがある。フィギュアスケートのように比較的数値化しやすいテクニカル面と、数値化しにくい芸術点の二面で競われる場合、テクニカル面と芸術面が完全に背反でないため、その評価は物議を引き起こすことが多い。具体的には派手なテクニックを使えば、芸術的に見ても優美さや豪華さが増してしまうため、純粋に芸術面だけでの比較は非常に困難なものとなる。
さらに女性の美となると、比較はさらに困難なものとなる。歴史や文化が関わってくるためだ。日本において、かつては細面の色白が美人とされたが、現代では丸めの小顔が好まれている。先進国においてはスレンダーであることが美人の要素の一つとされているが、国によってはまったく価値をなさない。たとえばアフリカの首長族では、首が長いことが美しいとされ、女性は小さなころから、首に金属の輪を継ぎ足してより長い首へと伸ばしている。トンガ王国では太っている女性が美人とされていることは有名な話であり、一般的な先進国とは正反対とも言える美的センスで評価されている。中国においてもかつては小さな足の女性が好まれ、足が大きくならないように小さな靴を履いて足の発育を抑制する纏足が行われていたことは歴史上の事実である。
このように比較を行う上では、共通の価値観を持つグループが、最も長けた数人の審査員で評価することが望ましい。ネット上には様々なサービスが損じするが、価格面のように客観的に比較できるものばかりでなく、心地よさや見た目の良さなど主観に訴えるものも多い。価格面を重視するグループに心地良さを比較させても無意味なことであり、これは共通の価値観が価格なのであるから、心地よさを比較するのであれば、心地よさを重視するグループで行わなければならない。特に、悲しみや苦しみなど感情に訴えることは感じ方に個人差が激しいので非常に比較が困難といえる。
以上のように比較には、定量化することで客観的に比較できる簡単なものと、定量化できず主観による比較しかできないものがあるので、両者については適切な指標を設定することが重要である。
<参考>日本看護協会
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